大判例

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宮崎地方裁判所 昭和57年(わ)315号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

一本件公訴事実の要旨は、主位的訴因が「分離前相被告人B(以下、Bという)は、昭和三九年七月一日から昭和四六年三月三〇日までの間、宮崎県西都市建設課土木係員として勤務し、同市が昭和四三年に同市大字南方一八三番地一先の一ッ瀬川に架設を決定し、阿萬建設株式会社に発注した人道用吊橋の設計を担当するとともに、同橋架設工事開始後は主任監督員として同工事の施工を指揮監督する業務に従事していたもの、被告人Aは、昭和三九年七月一日から昭和四四年三月三一日までの間、同市建設課課長として勤務し、Bの前記業務を指導監督する業務に従事していたものであるが、同橋は二本の主索によつて吊り下げられ、一ッ瀬川川床上約二二メートルの高さに設置する長さ一一四メートルの長大な吊橋であり、主索が破断すれば橋体が落下し、人の生命身体に危害を及ぼす危険が極めて大であり、その主索を支える塔頂部においてはサドル又は滑車によつて主索が曲げられ、当該主索の屈曲部に曲げ応力が働き、また荷重変動による主索の相対運動が生じることにより、径の小さなサドル又は滑車では、右主索の屈曲部分に働く曲げ応力及び繰り返し曲げが大きくなり、当該部分における主索を疲労させてその強度を低下させ、主索を破断に至らせる危険があつたのであるから、Bとしては、同橋の設計に当たり右の点につき文献を参照し、吊橋設計業者から知識を得るなどして主索に働く力の大きさ、力の作用等に留意し、少なくとも素線径の四五〇倍以上の径を有するサドル又は滑車を使用する設計をしなければならない業務上の注意義務があるのにこれを怠り、サドル又は滑車の径の大きさと主索に働く曲げ応力及び繰り返し曲げとの関係並びに右曲げ応力及び繰り返し曲げの増大が主索の破断をきたすことに全く気付かず、漫然、同橋には直径六〇ミリメートル程度の小さな径の滑車を使用すれば足りるものと軽信し、昭和四三年一二月ころ、滑車の径を六〇ミリメートル程度とする同橋の設計図を作成した上、同設計図に基づき前記阿萬建設をして直径七五ミリメートルの小さな径の滑車を製作させ同橋塔頂部に取り付けさせて、昭和四四年三月三一日同橋を架設して通行に供した過失により、被告人Aとしては、Bに同橋を設計させるに当たつては、前記の点につき、文献を参照し、吊橋設計業者から知識を得るなどしてBに少なくとも素線径の四五〇倍以上の径を有するサドル又は滑車を使用した設計を行わせるよう指導監督しなければならない業務上の注意義務があるのにこれを怠り、サドル又は滑車の径の大きさと主索に働く曲げ応力及び繰り返し曲げとの関係並びに右曲げ応力及び繰り返し曲げの増大が主索の破断をきたすことに全く気付かず、漫然、昭和四三年一二月ころ、Bの作成した設計図を詳細に点検することなく、同設計図に基づく同橋の施工を指示した上、Bを指導監督し、前記のとおり同橋を架設して通行に供した過失により、昭和五五年一月六日午後二時五五分ころ、強度低下をきたした同橋の主索を右岸上下流側塔頂部、左岸上流側塔頂部の三か所において破断させ、折から同橋上を通行中のCほか二一名とともに同橋橋体を一ツ瀬川川床に落下させ、よつて別紙一覧表記載のとおり、右Cほか六名を外傷性ショック等により死亡させたほか、Dほか一四名に対し傷害を負わせたものである。」というにあり、第二五回公判において予備的に追加された訴因が、Bの関係で「少なくとも素線径の四五〇倍以上の径を有するサドル又は滑車を使用する設計をしなければならない業務上の注意義務があるのにこれを怠り」とある部分を「少なくとも主索の直径(但し、主索に複数のストランドロープを使用する場合はストランドロープ一本の直径)の約八倍以上の半径を有するサドル又は滑車を使用する設計をしなければならない業務上の注意義務があるのにこれを怠り」と、また、被告人Aの関係で「Bに少なくとも素線径の四五〇倍以上の径を有するサドル又は滑車を使用した設計を行わせるよう指導監督しなければならない業務上の注意義務があるのにこれを怠り」とある部分を「Bに少なくとも主索の直径(但し、主索に複数のストランドロープを使用する場合はストランドロープ一本の直径)の約八倍以上の半径を有するサドル又は滑車を使用した設計を行わせるよう指導監督しなければならない業務上の注意義務があるのにこれを怠り」とそれぞれ予備的に追加するというものである。

二当裁判所の判断

(一)  当事者間に実質的に争いがなく、証拠上も確定される事実

(1)  西都市は地元民の陳情を受けて昭和四二年暮れころから速川神社の参道用に吊橋の架設を計画し、その設計の実施及び施工の監督を同市建設課が行うことになり、当時同課課長であつた被告人は速川神社の所在する穂北地区の担当者であつた土木係員Bにその設計を行なうように下命し、Bはこれを受けて吊橋の設計を完了して被告人ら上司の決裁を得た。

西都市は昭和四三年一二月にBの設計に基づく吊橋の架設工事を阿萬建設株式会社に発注し、Bが工事監督員になつて右工事が開始され、昭和四四年三月三一日宮崎県西都市大字南方一八三番地一先の一ッ瀬川に高さ約一〇メートルのコンクリート製塔柱上に張られた直径三四ミリメートルのストランドロープ(直径約2.27ミリメートルの素線一九本を縒り合わせたストランドを更に七本縒り合わせた共心入りのもの、以下主索という。)二本で支えられた全長一一四メートル、幅二メートルの人道用の無補剛の吊橋(以下、本件吊橋という)が竣工し、以後本件吊橋は神社参拝客等の人の通行の用に供された。ところが、本件吊橋は昭和五五年一月六日午後二時五五分ころ、通行中であつた二二名の歩行者とともに約二〇メートル下方の一ッ瀬川川床に落下し、その結果、別紙一覧表記載のとおり右Cほか六名が外傷性ショック等により死亡し、Dほか一四名が負傷した。この事故は、本件吊橋の主索が三か所、即ち右岸の上下流側並びに左岸上流側の各塔頂部に設置された直径約七五ないし七七ミリメートルの鉄製滑車(以下、滑車を含めてサドルないしはサドル部ということがある。)に接する付近で破断したことにより引き起こされた。

(2)  ところでBは土木工学の専門教育を受けたことはなく、吊橋設計の知識も経験もなかつたため、設計の要領が全く分からず、被告人もそのことを知つていたので、Bに対し前記吊橋設計を下命した際、経験のある同課のE係長の指導を受けるように指示し、Bは、E係長の指導助言を受ける一方で同市都市計画係に臨時職員として勤務していたFから九州電力のダム建設工事現場に架設されていた小規模吊橋の設計図面及びワイヤーロープの安全率の計算等の計算書などの設計資料を借り受けて、これらの設計資料と市役所内にあつた書籍などを見ながら、見よう見まねで設計していつたが、右計算書に記載されている主索にかかる張力などの計算式も理解できないありさまで、塔頂サドル部についてもFから借り受けた右設計図の塔頂部に滑車らしき形状のものが書かれていたので、適当に直径六〇ミリメートル程度の滑車を使用することとし、設計図に形状や寸法の記載をしないまま、単に直径六〇ミリメートル程度の滑車の簡単な丸印を記入するにとどめ、具体的には施工業者の判断に委ねることとした。こうして、Bは橋長一一四メートル、巾員二メートル、塔柱一〇メートルの吊橋の設計をなし、被告人ら上司に設計図及び部材の重量を算出した計算書等設計書類を提出して決裁を仰いだが、被告人は、自身吊橋設計の知識がなかつたことや右設計書類はE係長の指導のもとに作成されたものと考えたことなどから、吊橋の全体の形状を一見しただけで右設計書類に基づく吊橋の施工を決裁した。かくしてBの作成した設計書類に基づき本件吊橋の架設工事が施行されたが、塔頂部に設置すべき滑車四個については、工事開始後阿萬建設株式会社がBの作成した設計図面に基づいて株式会社小野鉄工所に製作を依頼し、同鉄工所は設計図より一回り大きい直径約七五ないし七七ミリメートルの滑車を製作した。Bは右滑車を点検したところ、その溝の部分が同人において予期していたU字型と異なりV字型であつたため主索との接触面積が小さくなり、主索の寿命にも影響するのではないかと考えたが、滑車が回転しているうちに溝がすり切れてしまい、主索の形に合うように丸くなるだろうなどと考えてこの点を不問に付したうえで阿萬建設株式会社をして塔頂部四か所にそれぞれ一個づつ取り付けさせた。そして本件吊橋竣工時の検査にはE係長とBが当り、検査合格と認定し、その旨の検査調書をEが起案し提出した。

(二)  主索の破断原因

1  宮崎大学工学部教授守恭平、同堤一作成の鑑定書(以下、守鑑定という)、鑑定人岡内功作成の鑑定書(以下、岡内鑑定という。)、証人岡内功、同守恭平の各証言その他の証拠によれば本件吊橋の主索の破断原因は概略次のとおりであると認めることができる。

(1) サドル上の主索に作用する静的応力

本件吊橋の死荷重による主索の最大張力は約二五トンであり、事故時の歩行者(二二名)の重量(活荷重)による最大張力の張力増は死荷重によるそれの一〇パーセントにも達していなかつた。主索の破断強度は約六五トンであり、事故時の死荷重及び活荷重により主索に生じていた張力に対しては十分に安全の余裕を保持していたと一応考えられる。しかし、本件吊橋の塔頂サドル上の主索の素線には曲げに伴い、荷重による引張り応力の他にかなり大きい曲げ応力が作用しており、その値は、本件サドルの径Dと主索の径dの比D/dが2.2と小さく、それだけ主索の曲率が大きくなるため、D/dが大きい場合に比べてかなり大きい値であつた。また、サドル上の主索には大きな接触圧力が作用し、その結果素線にはその軸と直角の方向に圧縮応力が働いていたが、その大きさは、サドルの径が小さく、しかもサドルの溝底がV字型であつたために主索とサドルの接触面積が著しく小さくなり、通常の吊橋で考えられる接触圧力に比べかなり大きい値のものになつていた。

(2) 応力変動

塔頂サドル近傍の主索では風の作用などの荷重変動により傾斜角度が変動し、その結果サドル上の主索に曲率変化が生じ、この繰り返し曲げ(以下、上下運動による繰り返し曲げという。)により相当に大幅な曲げ応力、圧縮応力の変動が繰り返された。(なお、岡内鑑定ではサドル上の主索に働く静的応力として曲げ応力及び圧縮応力を挙げているところ、これに続く「主索における応力変動」の項では単に応力の変動として、その応力につきなんらの限定もしていないので、その趣旨がいささか明瞭でない感があるものの、前後の文脈から考え、またここでいう変動の機序態様を彼此勘案すると、ここで応力の変動として説明されている応力とは曲げ応力及び圧縮応力の両者を含むものと解され、以下この解釈のもとに論を進めることにする。)この他、主索がサドル上を滑る際にも曲率が変動して繰り返し曲げが生ずるが(以下、相対運動による繰り返し曲げという。)、本件吊橋の場合に滑りがあつたか否かは後記3、(2)のとおり結局のところ不明であり、仮に滑つたとしてもその移動量は接触長に比べ短いので応力の変動幅は上下運動による繰り返し曲げの場合とそれ程の変わりはなかつたと考えられる。なお、このような応力変動幅を数値的に示すことは難しいが、当然のことながら、サドル径Dと主索の径dの比D/dが小さくなる程、即ち主索の曲率が大きくなる程変動幅は大きくなるとみるのが妥当である。

(3) 風による振動

上下運動による繰り返し曲げによる曲率変化を生じさせる原因としては強風による振動が取り上げられる。即ち、本件吊橋は無補剛吊橋であるため、たわみ及びねじれの固有振動数が低く、一方、橋床部断面が相当に偏平な長方形であつて、右のような固有振動特性と橋床部断面形状に留意すると、比較的穏やかな性質のパフェティング(自然の風の乱れによつて橋桁が揺れ動くこと)の他にかなり激しい性質をもつ曲げねじれフラッタに類する振動も、本件吊橋が峡谷に架けられ、いわゆる風道にあたること(このことは、Bの司法警察員に対する供述調書(検甲二六一)中に、昭和四三年四月中旬ころ吊橋架設のため現地調査をした際、同所は「両岸が標高一〇〇メートル前後の山にはさまれておりますために、山肌を伝つて吹きおろす東西の風があり、これが河川敷では上空に向つて吹き上げており、その風は時には強く、また風向風速も一定していない場所でした」「強いときは体にかなりの抵抗を感じる風が吹いており、通常でも髪が乱れるぐらいの風があり無風状態はほとんどないといつてもよい場所でした」とあり、また「この風を地区民は、杉安の貧乏風と呼んでいるようでありますが、そのわけは、いつも風が吹いており、特に冬は強く冷い風であるため震えがとまらないということ……」などとあることや、本件吊橋の架設工事に直接或いは間接的に関与した証人田中保雄、同阿萬好美らが揃つて、本件吊橋の架設場所は風の非常に強いところであり、工事中に強風のために工事がストップしたことも何度かあるなどと証言していることによつて裏付けられる)からしばしばみられたのではないかと考えられる。本件吊橋の場合橋床の各部が若干の補剛効果を保有していたことを考慮しても曲げねじれフラッタ振動が発生する風速は高々一〇メートル/秒と推定されるので、年に数回以上この風速を超える強風を受けて曲げねじれフラッタ振動が発生し、その度に主索には上下運動による繰り返し曲げに基づく曲げ応力圧縮応力の変動が大きく繰り返されたと推測される。

一般にこの振動は時には吊橋を一挙に崩壊に導くほど激しい性質を示すのであるが、本件吊橋では耐風索が施されているから、これが有効にはたらいている間は風による震動の発達を一定限度内にとどめたものと思われる。しかし、川田工業株式会社作成の速川橋点検調査報告書によれば遅くとも昭和五三年二月の時点では耐風索が殆どゆるんでしまい、その効果が期待できない状態になつていたことが認められる。

(4) 破断原因

本件吊橋の塔頂サドル部の主索では曲げ応力、圧縮応力も含めて相当に大きい応力が生じていたところへ、風による振動などによる曲率変化によつてかなりの大きさの応力変動が繰り返され、その結果主索素線の疲労が次第に進み、二二名の歩行者が橋上を通過した際の重量によつて一部素線の疲労亀裂が一気に拡大して主索の破断に及んだと考えられる。具体的には、先ず一箇所の主索の一部の素線が疲労破断することによつて他の素線の負担が過重になり、それらが延性破断してその場所の主索が破断するに至り、それとほぼ同時に他の破断箇所の主索では最初の主索の破断時の衝撃が働くとともに、負担荷重が倍加して、そこで連鎖的に破断したと考えられる。

主索素線の破断面が一様でなく、斜め四五度の方向にせん断されたものと、カップ状コーン状に延性破断したものに大別されること、また、同一破断箇所の主索でも素線の破断位置に違いがみられることは右破断状況を裏付ける。

なお、主索が破断した具体的な順序について、科学警察研究所警察庁技官柏谷一弥、同最上和生作成の鑑定書(以下、最上鑑定という)は、右のように延性破断した素線の数が、右岸上流側が一一三本、同下流側が一〇〇本とその差は少ないのに左岸上流側のそれは五五本と右岸のものとはかなり差があることに着目し、破断状況につき破断開始初期には各ストランド及び素線は漸進的に延びを伴つたのち破断し、最終破断時には衝撃的に破断するものと考えられるとして、右岸の上流側、下流側部分が最初にほぼ同じ時期に破断した後、左岸上流側部分が破断したとする。しかし、このような推論も一応可能ではあるが、別の推論も成り立つ余地があり、証人最上和生自身、最上鑑定において示した前記推論が理論的或いは科学的な根拠に基づくものではないことを自認しているのであるから、右推論は採用の限りではなく、結局主索の破断順序についてはこれを確定することができない。

更に、最上鑑定には破断原因につき「シーブ(サドル)径の過小、シーブ溝の形状不良などのため、降伏点以上の曲げ応力及び圧縮応力が生じ、さらにその屈曲部において荷重変動等によるシーブ溝との相対運動により繰り返しの曲げ応力及び圧縮応力が生じたため、形崩れ等の劣化が進行し、破断に至つたものと考えられる。主索の破断原因として疲労が関与したことは考えられるが、その程度は不明である。」旨の記載があるが、右記載は

ア 証人最上が「右形崩れは事故前からあつたのか、破断時の衝撃的な応力によつて生じたものか不明である。シーブ径が小さかつたことと溝形が合わなかつたことから判断して事故前において形崩れはあつたと推察はしているが、形崩れが破断にどの程度の影響を及ぼしていたか判断しかねる。」「破断原因は塑性域に入るほどの曲げ応力のもとで相対運動による繰り返し曲げによる疲労破断である。」旨の、右記載内容とは明らかに異なる証言をしていること

イ 最上鑑定は、本件吊橋の主索がサドル部において大きな曲げ応力を受けて弾性限度を超えて塑性域に入つていたこと、相対運動があつたことをそれぞれ前提とするものであるが、後記3で検討するとおりこれらはいずれも断定し難いこと

ウ 最上鑑定は鑑定資料を本件吊橋の主索とシーブに限定し、主索の破断部位やシーブの外観検査等に主眼を置いてなされたもので、本件吊橋の形状、重量については考慮していないこと

等に照らして採用できない。

2  サドル径の過小と破断原因との因果関係

右に認定・判断したところによると本件吊橋のサドル上の主索の疲労を促進した要因は、

① 主索素線軸方向に働く曲げ応力が大きかつたこと

② 主索素線軸方向と直角の方向に働く接触圧による圧縮応力が大きかつたこと

③ 右各応力の変動幅が大きかつたこと

④ 右③の繰り返し回数が多かつたこと

であり、このうち④は風による振動を防止する設計・管理に関係するものであるが、①ないし③はいずれもサドルの径が主索の径に対して過小であつたことに原因しており(なお、前記のとおり②についてはサドル底部がV字状であつたことも関係している。)、サドルの径の過小は本件事故と因果関係のある設計上の欠陥であるということができる。そして、この点の方が、サドル底部がV字状であつたことよりも疲労の促進要因としては大きな比重を占めているものと考えられる。

3  破断原因に関連する若干の争点

(1) 曲げ応力の大きさ

曲げ応力が大きいほど疲労が促進されることは前記のとおりであるが、本件吊橋のサドル上の主索の素線に生じていた曲げ応力の大きさについて、守鑑定や最上鑑定は左記計算式(以下Aの式という。)

(最内側素線)

(最外側素線)

(注)σ……主索を構成する素線の曲げ応力(kg/mm2)

E……弾性係数(10,000~14,000kg/mm2)

δ……素線径(mm)

D……滑車の直径(mm)

d……主索の直径(mm)

を使用して、本件吊橋の素線径2.27ミリメートル、滑車の直径約七五ミリメートル、主索の直径三四ミリメートルをあてはめて計算すると、本件吊橋の主索を構成する素線の曲げ応力は、最内側素線が約三〇三kg/mm2から約三八〇kg/mm2、最外側素線が約一五九kg/mm2から約二〇三kg/mm2となり、この曲げ応力は主索の素線の引張強さ約一五〇kg/mm2、弾性限度約一一〇kg/mm2をかなり上回つたもので、主索の素線が弾性限度を超えて塑性域に入つており、強度低下をきたしているとの判断を示し、検察官もA式は信用できるとしているのであるが、弁護人はストランドロープの曲げ応力に関する計算にあたつては平井敦他著「鋼橋Ⅲ」(昭和四二年改訂版)等に引用されている元北海道大学工学部教授金俊三の提案した左記計算式(以下Bの式という。)

(注)σ……主索を構成する素線の曲げ応力(kg/cm2)

C……主索の直径dと主索を支持するサドルの曲率半径Rに関する実験によつて得られる係数

種  別

a

b

7 本線

6撚

Cast Steel

0.080829

0.062904

19本線

6撚

Cast Steel

0.082496

0.317122

37本線

6撚

Plow Steel

0.270758

-0.696700

上記三種の区別を無視した係数

0.104128

0.079539

Ec……主索の弾性係数(8.4×105~1×106kg/cm2)

δ……素線径(cm)

R……サドルの曲率半径(cm)

d……主索の直径(cm)

を使用すべきであつて、この計算式によると、本件主索を構成する素線の曲げ応力は、約40.45kg/mm2にしかならず、主索の素線の引張強さ約一五〇kg/mm2をかなり下回つたもので、弾性限度を超えるような曲げ応力ではない旨主張しているので以下検討する。

まず、証人最上、同守の各証言によれば、Aの式は本来は鉄の棒(単一体)を丸いものに巻きつけた場合に生ずる曲げ応力についての式であるが、ヤング率を補正すれば縒られているストランドロープの素線についても適合するという考え方に基づいてロープ業界で用いられていることが認められる。しかし、岡内鑑定によると、主索、特にストランドロープの曲げ応力は素線間の摩擦状況や素線の方向など応力の大きさに影響する因子が明確でないために、精度よく計算することは難しく、特に本件吊橋の主索のように大きい曲率をもつて曲げられている時は一層困難になることが認められ、更に、証人岡内の証言によると、

① A、Bの各式は曲げによるひずみが比較的小さく、ひずみの断面内の分布が直線的であることを前提として成り立つもので、サドルの径と主索の径の比が小さすぎた場合(主索の曲率が大きい場合)にはそのひずみの分布状況は直線的ではないため、もはや右両式は当てはまらないと考えられる

② また、Aの式についてはヤング率のとり方にかなり幅があるうえに、そこで使用されるヤング率はおそらく主索を真つ直ぐの状態で引つ張つた時の数値であり、曲げた状態でのヤング率はまた違つた値になり得ることも考えられる

③ Bの式は昭和一六年前のアメリカ合衆国でなされた特定の数種のケーブルを使つてなされた曲げ実験の結果に基づいて導かれた実験公式であるので一般性に疑問がある

ことが認められるのであつて、いずれの式も本件吊橋のサドル上でD/dが2.2の大きな曲率で曲げられた本件主索について適合するか否かは疑問であると言わざるをえない。

従つて、Aの式から主索の素線が塑性域に入つていたと結論することはできないし、また、Bの式から弾性域内であつたと結論することもできないというべきである。

もつとも、守鑑定は本件主索の素線の一部が塑性域に入つていた根拠として、左岸下流の破断しなかつた塔頂サドル部上の主索が「く」の字型に塑性変形していたことも挙げているのである(この点は最上鑑定においても同様である)が、右「く」の字型は弁護人が指摘するとおり破断の段階で急激に荷重がかかつたことによつて生じた可能性もあり、右のように結論づけることにはなお疑問の余地がある。また証人最上の証言によれば右岸下流川側の主索の破断付近に「く」の字型に曲がつたストランドがあり、その位置が破断した箇所と異なつていることから、事故前に既に右箇所において塑性変形が生じていたというのであるが、同証人は最上鑑定では前記のとおり右守鑑定の指摘する箇所を挙げてこの点の重要な裏付けとしていたのであるが、弁護人の追究にあうや、この箇所については簡単に破断時の衝撃により「く」の字型に塑性変形した可能性もあることを認めて、むしろ前記別の右岸下流側主索の破断付近の状況をその重要な論拠として挙げているのであつて、この経緯に徴し、同証人の推論は、一貫せず、その根拠も薄弱で、説得性に乏しく、たやすく採用し難い。従つて曲げ応力の大きさが主索素線に塑性変形を生じさせる程のものであつたか否かはこれを確定することができない。

(2) 相対運動による繰り返し曲げの存否

守鑑定は「主索とサドルは大きな圧力のもとで互いに接触しているが、人の往来や風圧、降雪などによる荷重の変動、気温の変化を原因とする主索の伸縮によつてわずかながら両者の間に相対運動が起こり得る可能性がある。相対運動の結果、素線とサドルの間に大きな摩擦を生ずるが、シーブの表面の線状痕はそのことを示すものと言える。」とするが、弁護人は主索の塔頂部サドル上での相対運動はなかつたと主張し、滑車の溝に残された擦過痕は相対運動によるものか、本件吊橋の落下時の衝撃で生じたものか不明であると主張するので以下検討する。

まず、サドルの表面の傷についてみると、証人守は、「サドルの傷のうち破断時にできた傷とそれ以前からあつた傷との区別はつかないが、傷の範囲が大きいことから見て破断時の一瞬にできた傷とは考えられない。」と証言し、証人堤一も「破断した三箇所のサドルの表面には一枚剥いだような非常に鋭利な傷があり、これは落下時の衝撃の際についたと思われる。右三箇所のサドルには鋭利な傷のほかに全体的に大きな傷がついており、また主索が破断しなかつた左岸下流側のサドル表面には滑らかな、素線の大きさを少し大きくしたような溝が何条か入つているが、これらは長年にわたつてついたものであると思う。」と証言しており、右各証言によればサドルの傷は破断の際に形成されたもの以外に、破断以前に形成されたものが存在すると認めるのが相当である。

ただ、それが摩擦を切つての「滑り」によるものであるか否かについては証人堤一は主索がサドル上で極めて大きい鉛直圧を受けていることを理由にかかる「滑り」があつたことを否定し、また証人岡内はサドルと主索の間の摩擦係数、接触面積などが明らかにされない限り、数値的に「滑り」の有無を判断することは難しいとしているのであり、更に言えばサドル上の傷は守鑑定にいう相対運動を前提とすることなく、一時的な原因で生じうることも十分想定される余地があることなどからすれば本件吊橋において「滑り」を認定するにはなお証拠が不十分であると言わざるをえない。

また、証人堤一は「サドルの傷はサドルの面が食い込んで破壊されており、右傷はせん断破壊である」とし、「サドルと主索との接触面において、大きい鉛直圧を受けている主索がその軸方向に強い力で引つ張られ、その下のサドルが主索によつて削りとられて滑り破壊を起こすことによつて主索にずれが生じ、その結果、相対運動が生じた。」と証言し、同人作成の「速川橋の塔頂におけるケーブルとシーブ間の相対運動に関する検討」と題する鑑定書(以下堤鑑定という。)において本件吊橋の上方から風速二〇メートルの風が吹きつけ、約八トンの風荷重がかかつた場合を想定して一定の条件のもとで滑り破壊が起きることを計算上示している。しかし、堤鑑定は、まず本件吊橋において上方から風速約二〇メートルの風が吹きつけるような状況があつたかが証拠上明らかでないうえに、素線とサドルの接触面積は多分に仮定を含んだ数字であり、接触面積の大きさと関係する主索の形崩れが生じる始期及びその終期も不明であるという問題点があることを考えると、結局一定の条件のもとでの理論的な可能性を示したものにとどまるというべきである。

以上によると、サドル表面の傷からは、「滑り」ないし「滑り破壊」によつて相対運動が生じた可能性を考えることは一応できるものの、その存在を認定することまではできないというべきである。

(三)  主索の破断に対する予見可能性

前記(二)1においてみたところによれば、主索が塔頂サドル部付近において破断に至る原因ないしはその経過の概要を具体的に予見するのに必要な知識としては、

①  右部分の主索において繰り返し曲げにより疲労が進行すること

②  サドルの径が過小であることが右疲労を促進する重要な要因であること、即ち、

ア サドルの径が過小であると、サドル上の主索の曲げ応力や圧縮応力が大きくなり、これが当該箇所での繰り返し曲げを介して疲労を促進するのに大きく寄与すること

イ サドルの径が過小であると、繰り返し曲げを受けた場合にそれだけ曲率変化が大きくなり、右各応力の変動幅も大きくなり、疲労が促進されること

③  繰り返し曲げの発生機序としては風の影響による橋体の振動が重視されるべきこと

であると考えられる。

(1) まず、②アの知識のうち、サドルの径が小さいと曲げ応力が大きくなるという点については、証人高崎一郎、同多田安夫、同雨宮敏男、同上田浩太、同岡内の各証言、前記鋼橋Ⅲ、押収してある図書(「吊橋の設計と施工」川田忠樹著、理工図書株式会社発行)一冊(昭和五八年押第二一号の二)によれば、昭和四三年当時学界では既に知られていた知識で、当時発行されていた各種文献にも記載されており、橋梁会社の吊橋の専門技術者も設計に当たつて曲げ応力が大きくなりすぎないように配慮していたことが認められ、一般の吊橋の設計に関与する土木技術者においても右の点について知ることは客観的には可能であつたということができる。しかし、①とも関連することであるが、これが疲労という概念ないし現象と結びつけて理解されていたかといえば大いに疑問とされなければならない。

(2) そこで①についてみるに、証人最上、同守の各証言、最上鑑定、守鑑定、ワイヤーロープ便覧の抄本、ワイヤーロープVOl一〇の抄本などによれば、昭和四三年当時動索については繰り返し曲げを受けることによつて疲労が進み、特に大きな曲率のもとで繰り返し曲げを受けた場合には寿命が短くなることが知られており、それを考慮して各種動索のロープ径ないし素線径とシーブ(滑車)径の関係につき労働安全衛生規則(昭和二二年労働省令第九号)、索道規則などにその基準が定められていたことが認められ、当時動索に関する文献等を調べれば、動索と同様にワイヤーロープを用いる吊橋の主索も繰り返し曲げを受けることにより疲労が進むことを知ることは客観的には可能であつたと言えるのであるが、証人岡内の証言によれば、吊橋の主索が動索であるという考え方は昔も現在もなく、前記「ワイヤーロープ便覧」等は土木技術者は余り関心をもつて見なかつたこと、繰り返し曲げによる疲労現象は吊橋以外の動索の方面ではかなり以前から研究されていたものの、吊橋の主索は死荷重による応力が非常に大きく、それに比して活荷重はそれほど大きくないので活荷重がかかつたときに生ずる繰り返し曲げによる応力の変動幅は小さいと考えられるため、前々から吊橋の主索において疲労というのはあるかもしれないが、それほど重視する必要はないと考えられ、吊橋の主索における疲労という問題について関心が払われていなかつたこと、それゆえ吊橋の主索の疲労の研究はなされておらず、昭和四三年当時吊橋の主索において疲労が起こることもはつきりしていなかつたのであるが、その後、死加重に比して活加量の割合いがかなり大きくなる斜長橋が多く出現したことや本四連絡橋に鉄道を載せる計画が立てられたことなどから、吊橋について主索の疲労の問題が実用上重要となり、現在、疲労の研究は進展中の状況にあることが認められ、橋梁会社の専門技術者である前記証人上田は昭和四三年当時繰り返し曲げによる疲労を考慮に入れて設計したことはない旨明確に証言しており、その他の証人雨宮らの証言中にも当時この点を意識して設計した節が見当らないことなどを併せ考えるならば、昭和四三年当時、吊橋を設計する技術者において吊橋の主索に疲労が生ずることを知ることは期待し得なかつたと考えられる。

(3) 更に、③については岡内鑑定、証人岡内の証言によると、吊橋において風により曲げねじれフラッタ振動が発生するが、その際主索の振動形は主索の張力変化を伴わない逆対象振動モードで生ずることが多く、このため塔頂サドル近傍の主索に上下運動による繰り返し曲げが生じ、その結果右部分の主索に疲労が生ずることが判つたのは、昭和四三年以降の比較的最近の研究成果(一九八三年出版のCable Support-ed Bridgesなど)によるものであることが認められ、右事実によれば昭和四三年当時、右のような形態の繰り返し曲げの発生を知ることはおよそ不可能であつたと言える。

(4) また②アの知識のうちサドルの径が小さいと圧縮応力が大きくなり、それがサドル部での主索の疲労促進要因となるという点については岡内鑑定、証人岡内の証言によると、サドル上の主索に素線軸方向に働く応力と、素線軸方向と直角の方向に働く応力との二軸応力状態が存在し、これが主索の強度に大きな影響を与えるということが、昭和四二年に外國の文献(一九七七年出版のCable Stayed Bridgesなど)にあらわれ、ようやくこの点が注目されるようになつてきたことが認められる。

(5) なお、②イについては、理論的には知り得た知識であるとしても、前記(1)ないし(4)のとおり昭和四三年当時、吊橋の主索は静索として単に静的な曲げ応力のみが認識され、疲労について注意が払われていなかつたこと、繰り返し曲げの発生機序が明らかになつていなかつたことからすると、繰り返し曲げとの関係でその問題性を認識することは期待し得なかつたと考えられる。

以上をまとめると、昭和四三年当時、吊橋の設計に関与する一般的な土木技術者を基準にして、本件吊橋の主索に関し認識し得たことは過小の径のサドルを用いることによつて主索の静的な曲げ応力が大きくなるという点のみに限られ、風の影響による繰り返し曲げによつて塔頂サドル近傍における主索の疲労が進み破断に至るという因果の概要を予見することはおよそ不可能であつたということができる。従つて、公訴事実のうち「径の小さなサドル又は滑車では、右主索の屈曲部分に働く曲げ応力及び繰り返し曲げが大きくなり、当該部分における主索を疲労させてその強度を低下させ、主索を破断に至らせる危険」という部分のうち、径の過小なサドルを用いると曲げ応力が大きくなるという点を除いては立証がないことになる。そして、右の点を認識するだけでは、そのようなサドルの使用がその部分の主索を破断させることにつながるということまで予見しうるということにはならない。このことは吊橋の主索がいわゆるターンバックル部やアンカー部などにおいて相当大きい曲率で曲げられることがあるという一事を考えただけでも明白である。しかしながら、仮に検察官が主張するような素線径の四五〇倍以上の径あるいは主索直径の約八倍以上の半径を有するサドルを使用すべきであるという設計基準ないしは設計上の常識が存在していたとすれば、吊橋の設計に関与する一般の土木技術者において、右基準の存在と当時既に知られていた曲げ応力に関する知識などが相俟つてその因果の機序は解明されないにしても、径の過小なサドルを使用することがサドル部の主索の破断を招くことについての危険性を認識し得た可能性も一概に否定しきれず、なお被告人に過失責任を問いうる余地が残ることも考えられる。そこで、更に進んでこの点を検討することとする。

(四)  サドル径を主索素線径の四五〇倍以上とする設計基準について

守鑑定、証人守の証言、ワイヤーロープVOl一〇の抄本などによると機械工学の分野においては遅くとも昭和の初期から各種研究によつて、ワイヤーロープが滑車やドラムの周囲に曲げられた場合曲げ応力が発生し、滑車やドラムの径が小さいと曲げ応力が大きくなつてロープの寿命が短くなることが知られ、労働安全衛生規則では「揚重機の巻胴又は滑車の径はロープの径の二五倍以上としなければならない。」などと法令上でも安全基準が定められ、ワイヤーロープ製造元である東京製鋼株式会社発行の技術書「ワイヤーロープ」には「滑車やドラムの径は、できれば素線径の一〇〇〇倍以上、少なくとも素線径の四五〇から五〇〇倍以上、相当寿命を犠牲にしても素線径の三〇〇倍以上とすべきである」旨記載されていることが認められるのであるが、右に述べられた基準は動荷重をうける動索を主に対象としたもので、当時の吊橋の専門技術者は吊橋の主索は静索であると理解し、曲げ疲労を考慮せずに設計していたことは前記のとおりであり、当公判廷で調べた吊橋の専門技術者である証人らですら前記「ワイヤーロープ」の右記載を見たものがほとんどなく、いずれも「少なくとも素線径の四五〇倍以上のサドルまたは滑車を使用する設計をすること」という基準について昭和四三年当時においても、また今日においても存在しない旨明確に供述しているのである。のみならず、道路橋示方書・同解説によれば、昭和四七年に改定された道路橋示方書において、吊橋のサドルの半径は主索直径の八倍以上とする旨の基準が示されていることが認められるのであつて、昭和四三年当時から今日に至るまで素線径を単位にした基準が吊橋の設計に携わる土木技術者の間に存在しなかつたことは明らかである。

もつとも、吊橋の主索についても、前記「吊橋の設計と施工」には「吊橋のような永久構造物にあつては、ワイヤーロープを構成する最外層の素線径の一〇〇〇倍以上の曲率半径をとることが望ましいとされている。」旨記載されているのであるが、

①  右記載に引き続いて記述されている計算例と併せてみると、「曲率半径」と記されている部分は「曲率直径」の誤記である可能性が高く、そうだとすれば前記「ワイヤーロープ」に示された「素線径の一〇〇〇倍以上」という動索の基準と全く一致することになり、著者は右基準がそのまま吊橋の主索にも当てはまるものと理解して記述した可能性があること

②  著者の川田忠樹は昭和四〇年当時川田工業の設計部長の職にあり、その後同社の社長として現在に至つていることからすれば、同社が架設した吊橋のサドル半径は同人の示した右基準に従つて設計されて然るべきところ、検察官作成の捜査関係事項照会書(検甲九五)によれば、同社が昭和四四年から昭和五二年にかけて設計・架設した六例の吊橋のサドル半径はいずれも素線径の四〇〇倍未満であり、しかもその倍率に相当なばらつきがあることが認められ、同社においても必ずしも右基準を重視していなかつたことが窺われること

等の点に照らして考えると、右記載は当時吊橋の設計に携わる技術者の間に存在した設計基準を記述したものではなく、著者の単なる設計思想の表明であると解するのが相当である。

なお、証人坂本次男は「主索の曲げ応力を考慮して素線径の少なくとも四五〇倍以上のサドル直径を有する吊橋を設計していた。吊橋を設計する業者は当然右基準を知つていた。」という趣旨の証言をしているが、同人の証言によつても昭和五六年に架設された同証人の設計にかかる宮崎県内の上祝子吊橋はそのサドル直径が素線径の約一七五倍しかないことが認められるうえに、同人は後に右基準は吊橋設計の基準としては存在していないことを証言中自認しているのであつて、右証言は全く信用できない。(なお、同人は検察庁の照会に対して自己が設計に関与したとする吊橋のサドル径について実際の値より大きい数値を報告していたことも証言中窺われる。)

以上総合すると、昭和四三年当時から今日に至るまでの間、吊橋の設計に関与する技術者の間にサドル直径を主索素線径の四五〇倍以上とする設計基準が存在したことを窺わせるに足る証拠はないと言わざるをえず、従つて、右基準の存在を前提とする検察官主張の主位的訴因の注意義務についてはこれを被告人に課すことはできないと解すべきである。

(五)  サドル半径を主索直径(但し、主索に複数のストランドロープを使用する場合は、ストランドロープ一本の直径)の八倍以上とする設計基準について

1  道路橋示方書等に示された設計基準

(1) 道路橋示方書・同解説、小規模吊橋指針・同解説によれば、昭和四七年三月に建設省道路局長及び都市局長から各道路管理者に「橋、高架の道路などの技術基準」として道路橋示方書(共通編・鋼鉄編)が通達されたが、そのなかに初めて道路法に規定する高速自動車国道・一般国道・都道府県道及び重要な市町村道における支間二〇〇メートル以下の吊橋(以下本格的吊橋という。)について土木設計者に対する指導的技術基準が盛り込まれ、そのなかに「ケーブル(主索)の折曲点にはサドルを置かなければならない。サドルの曲率半径はケーブル(主索)直径の八倍以上とする。」とする旨の規定が置かれたこと、昭和五九年二月には道路橋示方書の適用外とされた市町村道に新設された橋で、支間二〇〇メートル以下の、かつ主として歩行者及び自転車の通行の用に供する吊橋(以下小規模吊橋という。)についての指導的技術基準として「小規模吊橋指針」が建設省都市局街路課長・道路局企画課長通達として各道路管理者に通知され、そのなかのサドルの項目に道路橋示方書と同旨の規定が置かれたことが認められ、本格的吊橋については昭和四七年三月以降、小規模吊橋については昭和五九年以降検察官が予備的訴因として主張する主索の直径の八倍以上の半径を有するサドルを使用すべきである旨の設計基準が公的に存在したことは明らかである。

なお、道路橋示方書の右規定の「主索直径」の解釈としては、道路橋示方書改訂分科会長であつた証人多田の証言によれば、道路橋示方書では原則として主索にはストランドロープは使用しないこととされたが、仮にストランドロープを使用し、複数本を束ねて一本の主索とする場合であつても、右規定に従い主索直径を基準にしてサドルの半径を決めるべきであることが認められ、また、小規模吊橋指針においてはストランドロープないしスパイラルロープを主索に用いるのを原則としたうえで、右規定と同旨の規定が置かれているのであつて、検察官の主張する「主索に複数のストランドロープを使用する場合は、ストランドロープ一本の直径の八倍以上とする」との設計基準については道路橋示方書、小規模吊橋指針の解釈上もこれをとりえないことが明らかである。

(2) 道路橋示方書において右基準が定められた経緯について、当時右道路橋示方書改訂分科会会長として右基準の制定作業に関与した証人多田の証言によると、右基準は、

① 本四連絡橋の技術調査で得られた外国(アメリカ合衆国など)の長大吊橋の資料によると主索直径の八倍以上の半径を有するサドルを用いている事例が多かつたという事実を主とし、

② 前記金俊三の実験式によれば八倍の曲率半径をとれば切断荷重低下率が5.6パーセントにとどめられる旨の計算結果が得られたという事実を従として、

③ 従つて、右倍率をとれば安全率の計算上曲げ応力を無視して差し支えないと考えられたこと

等から経験的に決定されたものであることが認められる。

右のような規定制定の経緯からすると道路橋示方書の右基準は当時の吊橋の設計に関与する日本の土木技術者の間に存した設計基準について調査し、その結果を確認的に規定したものでないことは明らかである。

2  鋼橋Ⅲに示された設計基準

前記昭和四二年改訂版鋼橋Ⅲの第一二章「長大吊橋の設計」の項目には、「サドルのケーブル(主索)支承面の曲率半径は……他の構造物との関連も考慮して決定されるが、大体の見当はケーブル(主索)直径の約八~一〇倍以上にすればよいと言われている。」旨記載されている。

右記載は昭和四二年改訂版で初めて載せられたものであるが、その経緯につき右改訂版鋼橋Ⅲの分担執筆者である証人岡内は著者の平井敦から「このような値がそれまでなく、色々なところから要望があつて記載したのであるが、当時としては理論的に値を決めることができずに、既往のいろんな例を参照してまとめた結果、大体八倍の値になつており、その値でサドル上のケーブル部分で問題を起こしていないのでそういう値をとりあえず取り上げた。」という話を直接聞いたと証言しており、右証言に加えこの箇所が長大吊橋の章に記載され、そこで具体的例として取り上げられているのは、若戸大橋以外いずれも中央径間四〇〇メートル程度以上の外国の吊橋であり、前章「小吊橋の設計」の項目下には日本の吊橋を具体的例として多く取り上げて種々記述されていることと彼此対比して考えると右記載は外国の長大吊橋の既設例を調査した結果に基づいて、経験的に示された数値であると認めるのが相当である。従つて、右記載は、道路橋示方書の場合と同様、当時の吊橋の設計に関与する土木技術者の間に存した設計基準を反映したものでないことは明らかである。そうすると、右道路橋示方書の規定あるいは鋼橋Ⅲの記載だけからは昭和四三年当時検察官が主張するような設計基準が日本の土木技術者の間に存在したかは全く不明であると言わなければならない。

結局右のような設計基準の存否を判断するには、昭和四三年当時吊橋の設計に携わつていた技術者が主索の径とサドルの径の関係についてどのように認識していたか、当時の吊橋の技術者の証言や吊橋の既設例等から個々的に検討していくほかはない。

3  本格的吊橋と小規模吊橋

ところで、吊橋のなかには、山間の峡谷に架けられた人道用の簡易な吊橋から、鋼橋Ⅲに記載されているような中央径間四〇〇メートル以上の車道用の長大吊橋まで存在し、その規模・構造は様々であることが証拠上明らかであるが、証人佐伯彰は、小規模吊橋(簡易吊橋)は生活道路として経験的に架けられたものが多く、橋梁工学上から発達してきていないという面があり、小規模吊橋指針が作成される以前は設計担当者の層及び設計思想もまちまちであつた旨証言しており、右証言に徴すれば昭和四三年当時、吊橋の規模・構造に応じて設計に携わる技術者の質・水準に違いがみられたであろうことは容易に想像できる。検察官主張の注意義務の有無を判断するにあたつては、右のような吊橋の規模に応じた技術水準の差異というものを一応念頭に置く必要があると考える。そのためには、吊橋の規模・構造に応じて吊橋を分類し、それぞれの吊橋についてどのような技術水準ないし設計思想が存在したのかを見ていくのが妥当であるが、分類の基準としては、①小規模吊橋指針の適用の対象となる吊橋は人道橋で補剛桁を有しない簡易な構造であり、道路橋示方書の適用対象となる車道用の補剛桁を有する吊橋とは規模・構造において大きな違いがあり、②前記佐伯証言のとおり、小規模吊橋において技術者の層、設計思想がまちまちであつたという実情などを考慮すると、昭和四三年当時、道路橋示方書の適用対象となる程度の規模・構造の吊橋(道路橋示方書の適用から外れるような長大な吊橋も含む)を便宜上「本格的吊橋」とし、小規模吊橋指針の適用対象となる程度の規模・構造の吊橋を「小規模吊橋」と分類し、両者のそれぞれについて検討を加えるのが相当である。

4  本格的吊橋の設計基準

(1) 昭和四三年当時に本格的吊橋の設計に関与した技術者の認識

① 証人雨宮の証言によると同人は松尾橋梁株式会社に在職中、五月橋(昭和二九年竣工)、八雲橋(同三一年竣工)、美濃田大橋(同三四年竣工)、小鳴門橋(同三六年竣工)を設計・架設し、昭和三六年から三七年にかけて昭和六二年現在本四連絡橋公団が架設している大鳴門橋の概略設計に従事したものであることが認められるところ、同証人は、「サドルの曲率半径を決める際に、極端に曲げると曲げ応力が発生することから、鋼橋Ⅲに載つていた金俊三の実験式や過去の吊橋のサドルの設計例を参考にした。吊橋の設計をし始めたころには何倍ということは知らなかつたが、美濃田大橋の設計にあたつた頃にはどういう経過で知つたかは覚えていないが、何となく一〇倍以上ということは知つていたかと思う。」と供述するのであるが、

ア この点を当事者双方から更に確認されると、「一〇倍というはつきりしたあれは知りません。知らなかつたんじやないかと思いますけれども、大きな目安としてそのぐらいはとつた方がいいんじやないかということは何となく知つておつたんじやないだろうか。」と一〇という数字それ自体について曖昧な供述をしており、

イ また、右数字を知つた経過については、「はつきりとは覚えていない。」としつつ、「その前にいくつかやつてますから、それらの経験からそれぐらいのものが要るんだろうなと(思つた)。」と自己の経験から得られた数字であるかのように供述し、

ウ 更に、右数字が当時の設計基準であつたかについては「昭和三〇年代には極端に小さいといけないということは言われていたが、八~一〇倍という数字は三〇年代に出ていたわけではない。」とその存在を否定している

のであつて、同人の証言内容は帰するところ同人が吊橋のサドルを設計する際に過去の既設例等から一〇倍を大きな目安としていたというにとどまり、当時の技術者の間に一般に一〇倍という認識があつたとするものではないことは明らかである。

なお、同証人は「ストランドロープを何本か束ねて主索として使用するときはストランドロープをそれぞれ独立に考えてストランドロープの直径の何倍というように考えていた。小鳴門橋についてはストランドロープ一本の直径を基準にしてサドルの半径を決めた。」と道路橋示方書の基準とは異なり、ストランドロープ一本の直径の一〇倍以上を目安としていた旨供述しており、実際に、検察官作成の各捜査報告書(検甲二〇一、二〇二、二五四)によれば、雨宮の設計した前記各吊橋のストランドロープ一本の直径とサドルの半径との比は、八雲橋が23.1倍、美濃田大橋11.1倍、小鳴門橋22.2倍であり、いずれも一〇倍以上の値を示しているものの、主索直径とサドルの半径との比でみると八雲橋が6.4、美濃田大橋3.7、小鳴門橋5.0といずれも八倍以下の数値となつていることが認められるのであつて、同人はストランドロープを複数束ねて使用する場合、主索の直径を基準としてサドルの半径を決める考え方をとつていなかつたことが明らかである。

② 証人上田の証言によると、同人は現在松尾橋梁株式会社の設計部長の職にあり、昭和四三年前後も設計部に所属して、高山橋(昭和四二年一二月竣工)を設計し、脇瀬橋(昭和四六年二月竣工)の一部の設計を担当していたことが認められるが、同証人は「高山橋を設計した昭和四一、二年ころ、サドルの半径が大きい方が好ましいことは知つていたが、主索の直径を基準にして八~一〇倍という数字は知らなかつた。具体的な倍率については誰からも聞いたことがなく、昭和四〇年代の前半には曲率半径をケーブルの径の何倍にしなければならないという基準は私の知る限りでは存在しなかつた。脇瀬橋の設計に関与していた昭和四五年ころになつて鋼橋Ⅲの改訂版を見て初めて八~一〇倍という数字を知つた。当時サドルを設計するにあたつては、過去の設計例(雨宮の設計例)を見て経験的に曲率半径を決め、その後鋼橋Ⅲの金教授の式で曲げ応力度の計算をして検討するという方法によつていた。柚ノ木橋を設計した他の部員も同様の方法によつていたと思う。」と供述し、当時サドルの半径について具体的な基準が存在したことを否定する。そして、検察官作成の前記捜査報告書(検甲二五四)によつて同人が設計した高山橋をみるとサドルの半径が主索直径の5.2倍、その後他の設計部員が設計した柚ノ木橋も4.3倍であつて、いずれも検察官主張の基準を下回つており、右証言内容を裏付ける設計となつているのである。

以上によると、当時同人ないし吊橋の設計を担当した同社の他の設計部員において検察官主張の設計基準についての認識がなかつたことは明らかである。

③ 証人高崎の証言によると同人は橋梁会社である株式会社宮地鉄工の設計部次長で吊橋の設計技術者であることが認められるが、同証人は、「昭和四七年の道路橋示方書以前は基準がなかつたので、自社の過去の設計例や入手できる他社の設計例、鋼橋Ⅲなどの文献に載つている設計例等を参考にしてサドルの半径を決めていたが、過去の信頼できる設計例では主索直径に対し、約八倍前後のサドル半径のものが多く、宮地鉄工で設計した吊橋も結果的には八倍前後の値になつていた。」旨証言する。検察官作成の各捜査報告書(検甲二五二、二五四)によれば、宮地鉄工が設計した吊橋のうち昭和四三年以前に設計された出合橋は7.36倍、川津大橋は6.32倍、箱ケ瀬橋は7.64倍といずれも八倍を下回つているものの、川津大橋を除いては概ね八倍に近く、また、昭和四三年以降に設計された吊橋四例は全て八倍以上の値を示していることが認められ、確かに右証言のとおり宮地鉄工において八倍前後の値で設計をなしていたとは言えるのであるが、同証人は一方で「(昭和四三年)当時八という数字が大事なんだという明確な認識はなかつたと思う。」と供述しており、結局のところ同人の証言も当時基準がなかつたので、過去の設計例を参考にしてサドル径を決めたら結果的に八倍前後の値となつていたというものにすぎないように考えられる。

④ 証人多田は、「本四連絡橋の調査に関与し概略設計で試算例を作る段階において八倍という記憶はないが、それくらいの半径がないといけないということは知つた。」と証言するが、一方では基準的な数値は記憶がないとも供述しており、右証言内容からは当時の技術者の間に八倍という基準となる数値があつたかは明らかではない。

⑤ 証人岡内は、「昭和四三年当時、橋梁学界では、一応曲げ応力によつて主索の強度が低下するので、できるだけ大きなサドルを使用すべきであることは認識されていたが、その応力に関する研究がなされておらず、鋼橋Ⅲなど一部の技術書に曲げ応力に関する項目が入つていただけであり、具体的にどの程度の半径を持つサドルを使用すべきかの設計基準は、橋梁業界のみならず、橋梁学界の分野でも存在していなかつた」旨供述しており、橋梁業界のみならず橋梁学界においても設計基準が提示されていなかつたとしている。

⑥ 検察官作成の各捜査報告書(検甲二四二ないし二五三)によれば、「昭和四三、四四年当時は、主索とサドル半径の比率をどのようにしていたのか及びその根拠」という検察官の照会事項に対し、吊橋の専門業者のなした回答は、サドル半径の大きさを決めるにあたつては、前記「吊橋の設計と施工」を参考にした(東海鋼材工業株式会社)、昭和四二年、四三年の時点では主索直径の六倍以上としていたが、その根拠は特にない(日立造船株式会社)、主索直径とサドル半径の比率を考慮して設計していない(高田機工株式会社)、道路橋示方書のような指針がなかつたので、その比率は設計者の判断で決めていた(瀧上工業株式会社)、明確な基準がなかつたので鋼橋Ⅲや過去の実例等を参考にし、その都度決定していた(川崎重工株式会社)、一般的設計基準がなかつたので、主索とサドル径の比率については設計者がその都度、吊橋の規模、使用目的、交通荷重の実情などを勘案の上決めていた(横河橋梁製作所)というものであることが認められ、右事実によれば、昭和四三年当時一般的設計基準がなかつたため、各社は独自の判断でサドル半径を決定していたことが窺える。

(2) 日本の橋梁の専門会社の設計にかかる既設例

検察官作成の各捜査報告書(検甲二三七ないし二五四)、検察官作成の捜査関係事項照会書(検甲九五)によれば、検察官の照会により収集された一〇八例の吊橋架設例のうち、橋梁会社など吊橋の設計・架設を業務とする一五社が架設し、サドル径と主索径の比が判明している吊橋は九五例あり、そのうち本格的吊橋は二五例(昭和四七年以前に架設されたものは二二例)、小規模吊橋は一九例(同一二例)、種別不明の吊橋は五一例(同三一例)であること、サドル半径が主索直径の八倍未満のものは、本格的吊橋については右二五例中一九例(昭和四七年以前の架設分については二二例中一七例)、小規模吊橋については右一九例中四例(同一二例中三例)、種別不明の吊橋については右五一例中二〇例(同三一例中一二例)であり、合計すると九五例中四三例(昭和四七年以前の架設分については六五例中三二例)を占めること、もつとも、主索直径ではなく、主索を構成する複数のストランドロープ一本の直径を基準にしてサドル半径との比をみた場合右九五例中複数のストランドロープを使用している三五例のなかに八倍未満のものは全くないことが認められる。(なお、検察官作成の各捜査報告書(検甲二三六、二五四)によれば、外国の長大吊橋については、八例中三例が主索直径の八倍未満のサドル半径であることが認められる。)

右調査結果によれば専門業者の吊橋架設例は、その種別を問わず道路橋示方書の設計基準からみると外れた設計が多いものの、主索を構成する複数のストランドロープ一本の直径の八倍以上というような基準でみると、すべてがその基準を満していることになる。

(3) まとめ

以上みてきたところによると、昭和四三年当時の吊橋の専門技術者らが道路橋示方書に示されているような主索直径の八倍以上という設計基準を一般的に存在する設計基準として認識していなかつたことは明らかであり、また主索を構成する複数のストランドロープ一本の直径の八倍以上というような基準についてみても、既設例がすべてこの基準を満しているということから昭和四三年当時の吊橋の専門技術者らがかかる基準を一般的に存在する設計基準として認識していたと認定することは、これまでみてきた昭和四三年当時の吊橋の専門技術者らの認識及び次のような事情に照らして困難であると言わざるをえない。すなわち道路橋示方書の設計基準が設定されるに至つた経緯及び鋼橋Ⅲに示された設計基準が打ち出されるに至つた経過に徴すると、いずれも外国の既設例を収集してその大勢から一定の数値を導き出し、これを基準として創設するという帰納的、経験的な手法を採つており、理論的に一定の数値をはじき出すというような演繹的、理論的な手法を採つていないことが認められ、このようなことから推して主索を構成する複数のストランドロープ一本の直径の八倍以上というような基準があるとすれば、それは帰納的、経験的に導き出されるものと考えられるところ、日本の既設例については、これまで本件訴訟の過程で収集したように多数の既設例を収集してその趨勢を観察し、経験的になんらかの基準を見出そうと試みたことがこれまで橋梁業界及び橋梁学界のいずれにおいても行われた形跡がなく、このような考え方が単に雨宮一個人の設計思想であつて、同人が所属していた松尾橋梁の他の設計部員すらこのような考え方があることを全く知らなかつたという事情が存在するのである。

5  小規模吊橋の設計基準

右のとおり、昭和四三年当時本格的吊橋の設計に関与した専門技術者についてすら検察官主張の設計基準についての認識を認めるに足る証拠がない以上、小規模吊橋の設計技術者においてはなおさら右基準についての認識はなかつたであろうことは容易に推認できるのであるが、以下その設計実態について検討する。

(1) 宮崎県内で当時実際に小規模吊橋の設計を担当した者の認識及び既設例など

① 宮崎県内の小規模吊橋の架設業者については、証人野井正夫は、県内の吊橋は本件事故直後において私道等も含めて少なくとも一二〇橋くらい(うち市町村道は約二〇)存在し、小規模吊橋はワイヤー使用の熟練の山師、吊橋を過去に架けたことのある建設業者や鉄工所等の吊橋に詳しい者に個別的に頼んで作られているのが実態であり、その設計内容も多様であつた旨供述しており、右供述によると、県内の小規模吊橋の中には吊橋の専門業者によらずに架けられたものが多々存在することが窺われる。

② 被告人の当公判廷における供述、証人Eの証言、被告人の検察官(検乙六、七)及び司法警察員(検乙三)に対する各供述調書、Eの司法警察員に対する各供述調書(検甲一五九、一六一)、Bの検察官(検甲二八三、二八四)及び司法警察員(検甲二五七、二六三、二六四、二六六、二六八、二六九)に対する各供述調書によれば、当時西都市の建設課において小規模吊橋を設計・架設した経験を有する者はE土木係長ただ一人であり、被告人は当初本件吊橋の設計をEに依頼しようとしたが、同人が仕事の多忙を理由に断つたため、やむなくBを担当者とし、Eの指導のもとに設計するように指示したこと、Bは本件吊橋を設計するにあたつてEの架設した吊橋を見学したり、同人の助言を受けたりしていたこと、Eの設計架設した小規模吊橋には一ツ瀬川に架かる湯ノ内橋(昭和三八年三月三一日竣工)、片内橋(昭和四〇年三月三一日竣工)があることが認められる。

そこで、Eの設計した右各吊橋をみると、西都市長作成の捜査関係事項照会回答書(検甲一二三)、司法警察員作成の実況見分調書(検甲二二四)によると主索直径とサドル半径の比は片内橋が4.5倍であり、湯ノ内橋については蒲鉾型のサドルの上部が楕円形に削られて主索の接する部分は平面に近い状態になつているため、主索の曲率半径は判然としないが、右部分の形状を度外視するとその値は1.66倍であることが認められ、いずれも検察官主張の基準を満たしていないのであるが、右のようなサドルを使用した経緯について、証人Eは「自分は吊橋については素人といつてよく、右の二橋は東米良役場に勤務していたころ現場監督をしたことのある『みのり橋』の設計書を参考にして設計したものである。当時サドルは主索がコンクリートの塔柱に接触しないようにするための絶縁的な支えであるという程度の認識しかなく、サドルの径をどの程度にすべきかについての知識も全くなかつたため、サドルの大きさ・形状について設計図面を作成することもなく全て業者任せにし、右二橋のサドルは業者の製作してきたものをそのまま採用した。」旨証言し、右証言によれば右二橋のサドルの径の大きさないし形状は「業者任せ」にした結果偶然的に決まつたものであることが認められ、Eの主体的な設計思想に基づくものでないことは明らかである。

以上によると、当時西都市建設課において唯一小規模吊橋の設計経験者とされていたEにおいても、サドルの径の大きさの持つ意義について基本的な理解を欠いており、検察官主張の基準について認識がなかつたと認めることができる。

③ 次に、検察官作成の各捜査報告書(検甲二四〇、二五四)によると都城市で架設された関之尾公園吊橋(昭和四五年三月竣工)は直径二八ミリメートルの主索に対し約26.1倍の半径七三センチメートルのサドルを使用していることが認められ、検察官主張の基準を満たしている吊橋であるが、証人岩本康則の供述によると、右吊橋は同人が設計したが、当時同人は同市の都市公園課の公園係長で、吊橋を設計した経験も知識もなかつたこと、ただ、ロープを急激に曲げると衝撃が大きいことは知つていたので曲がり過ぎないように配慮してサドルを設計したが、八倍という基準については知らなかつたことが認められ、右事実によると右吊橋の設計は検察官主張の基準を認識してなされたものではないことが明らかである。

④ 証人坂本の証言によれば、同人は県内では吊橋の設計に比較的多く関与してきたものであるが、以前はクレーン等の動索関係の仕事に従事しており、道路橋示方書が改正された昭和四七年以前において吊橋の設計をした経験は乏しく、本件事故のあつた昭和五五年以降、吊橋の設計に関与するようになつたことが認められ、右事実によれば、同証人の証言や設計例は、本件吊橋が設計された昭和四三年当時の技術者の認識を知る資料としては必ずしも適切なものとは言い難い面があるのであるが、以下若干検討するに、同証人の供述により同人が設計に関与したことが窺われる吊橋で証拠上主索直径とサドル半径の比が判明しているのは宮崎県北川町所在の上祝子吊橋と同県北郷町所在の猪八重第一橋であるが、北川町長、北郷町長各作成の各捜査関係事項照会書(検甲一一七、一二四)、上祝子吊橋設計図面(弁一一)及び検察事務官作成の電話聴取書(検甲一一八)によると上祝子吊橋(昭和五六年三月二〇日竣工)は約9.6倍、猪八重第一橋(昭和五五年三月二五日竣工)は約四倍であることが認められ、前者は検察官主張の基準を満しているが、同人は、昭和五九年六月に施行された証人尋問において弁護人に指摘されるまで道路橋示方書に八倍の基準があることすら知らなかつた者であつて、同人において昭和五九年に至るまで検察官主張の基準について全く認識を欠いていたことは明らかである。

⑤ 前記の既設例のほか県内の小規模吊橋の既設例をみると西郷村長(二通)、椎葉村長、日之影町長、三股町長、北郷町長、野尻町長各作成の各捜査関係事項照会回答書(検甲一〇七、一〇九、一一二、一一四、一二〇、一二四、一二五)を総合すれば、右市町村が管理する吊橋一五例の内サドル半径と主索径の比が判明している一一例(竣工時期は昭和二九年ないし昭和五五年の間である)のうち橋梁の専門会社が架設したことが明らかな一例(西郷村の椎原橋)以外は全て八倍以下であることが認められ、また、証人臼井士郎の証言によると同人が昭和五五年三月、宮崎県綾町から依頼されて同町管理の吊橋四、五橋を調査したところ、うち一橋はサドルを使用していなかつたことが認められる。

⑥ 以上を総合すると県内の小規模吊橋は、吊橋の専門技術者の設計によらずに架設されたものが少なからず存在するうえに、吊橋の設計に関与した証人や既設例に徴する限りでは、その設計にあたつて検察官主張の設計基準を認識していたことを窺わせるような証拠も全く存しないといわざるをえない。

(2) 全国の小規模吊橋の実態

小規模吊橋指針の分科会長で、小規模吊橋指針作成に関与した証人佐伯の証言によると、小規模吊橋の多くは生活道路として橋梁の専門技術者以外に索道関係の者などが経験的に架けてきた側面があり、そのなかには、橋梁工学的にみておかしな構造になつているものが多々見受けられ、設計思想もまちまちであつたため、小規模吊橋指針を作成して統一した設計基準を設けたこと、小規模吊橋においてサドル上の主索が破断したという事例は本件事故以外には知られていないが、同人が実地にみたり、実態調査をした小規模吊橋のなかには、①サドルが塔頂部に設置されておらず、端部で折れ曲がつている例②サドルは設置されているが主索が塔柱に接触して、その接触点で折れ曲がつている例③サドルは設置されているが、主索の角度とサドルの傾斜があつていないためにサドルの端部で折れ曲がつている例④小さな円筒体を数個並べた上に主索を載せているためその端部において小さな折れ曲がり角度になつている例など角折れが出る不備な構造のものがいくつかあつたこと、小規模吊橋において右のように塔柱上で主索を急角度で折ることについて問題視されるようになつたのは本件事故以降のことであつたこと、以上の事実が認められる。

右事実によれば、道路橋示方書で一定の吊橋について設計基準が定められた昭和四七年以降も、その適用対象から外れた小規模吊橋においては統一された設計思想のないまま架設がなされ、全国的にみても主索の曲率半径を考慮しない不備なサドルを用いた小規模吊橋が存在していたことが窺われるのである。

(3) まとめ

以上によれば、昭和四三年当時小規模吊橋の設計に関与した宮崎県内ないし全国の技術者等において検察官主張の設計基準を一般的な設計基準として認識していたと認めるに足りる証拠はないと言わざるをえない。

6 以上のとおり、昭和四三年当時本格的吊橋、小規模吊橋を通じ、吊橋の設計に関与する技術者において検察官主張の設計基準を一般的な設計基準として認識していたと認めるに足る証拠はない。従つて、右設計基準の存在を前提として検察官が主張する予備的訴因の注意義務を被告人に課すことはできないと解すべきである。

(六)  結論

以上述べてきたとおり、被告人に対する公訴事実については犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法三三六条により無罪の言渡をする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官西理 裁判官多和田隆史裁判長裁判官上田誠治は転補のため署名押印することができない。裁判官西理)

別紙一覧表〈省略〉

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